漢(前漢)の武帝は、積極的な対外進出と財政政策を行い、漢に最盛期をもたらしました。
目次
張騫の西域派遣 ― 大月氏との同盟は失敗
匈奴を東西から挟み撃ちにするため、かつて匈奴に敗北して西域に逃れていた大月氏との同盟を狙い、張騫を派遣しました。
しかし、同盟は失敗し漢に帰国しました。
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大宛遠征 ― 汗血馬の獲得
張騫の西域派遣で得た情報の中に大宛(フェルガナ)の名馬「汗血馬」がありました。
汗血馬は、1日千里を走り、走れば血の汗を流す名馬といわれていました。
漢の武帝は、李広利に命じ、大宛(フェルガナ)を攻め、3000頭以上の馬を得ることができました。
敦煌郡など4郡を設置 ― シルクロードへ
漢の武帝は、衛青と霍去病に命じて、匈奴遠征を開始しました。
衛青は武帝の義弟、霍去病は武帝の后の甥です。
河西回廊(オルドスから甘粛地方に至る地域)から匈奴を追い出すことに成功し、敦煌郡など4郡(これを河西4郡といいます)を設置して防備を固めました。
これにより、オアシスの道(絹の道、シルクロード)が漢の支配下に入りました。
その後、匈奴は勢力が衰え、東匈奴と西匈奴に分裂することになります。
南海郡など9郡を設置 ― 海の道へ
南方の支配を固めるため、秦末に趙佗が独立して建てた南越国を攻め、降伏させました。
ここに南海郡など9郡(これを南海9郡または南越9郡いいます)を設置しました。
これにより漢の支配は、現在のベトナム中部まで拡大し、インド方面とつながる海の道へのアクセスが可能になりました。
楽浪郡など4郡を設置 ― 朝鮮北部を支配
朝鮮半島では、衛氏朝鮮が漢に従わず、周辺諸国の漢への入朝を妨害していました。
衛氏朝鮮は、劉邦の時代に燕から亡命した衛満が建てた国です。
武帝は、これに怒り、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など4郡(これを朝鮮4郡といいます)を設置しました。
これにより漢の支配は、朝鮮北部にまで拡大しました。
楽浪郡は、のちに高句麗によって倒されます。(313年)
塩・鉄・酒の専売 ― 生活必需品の専売
漢は相次ぐ外征で財政が傾きつつありました。この状況を打破するため、財政改革にも取り組みました。
財政官僚の桑弘羊は、塩・鉄・酒の専売に着手しました。
専売とは、国しか売ることができなくすることです。
塩・鉄・酒といった生活必需品を民間で自由に売買できなくし、高い税金をかけることで、国の収入を増やしました。
庶民は生活が困窮
しかし、生活必需品が買いにくくなった庶民は、生活が困窮しました。
均輸法・平準法 ― 差額を国の収入に
桑弘羊は、物価を安定させるために均輸法と平準法を実施しました。
均輸法は、物資が多い地域から、不足している地域に転売して物価を調整する方法です。
また、平準法は、物資を貯めておき、価格が高騰すると売却し、価格が下落すると購入するという方法です。
どちらも差額を国の収入としました。
商人は大土地所有者に転身
これらの政策は、商人が行っていることを国が行うということであり、民間の商業を圧迫しました。
儲からなくなった商人は、土地の購入に走り、大土地所有者(豪族)に転身していきました。
五銖銭の発行
粗悪な貨幣の流通を防ぐため、貨幣を作る権限を国家が独占し、民間で鋳造できなくしました。
そして、改めて五銖銭という貨幣を作り、流通させました。
儒学の官学化
漢の武帝は、董仲舒の意見を採用して儒学を官学化しました。
官学とは、国が認めた学問という意味です。
また、五経博士を置き、儒学の経典である五経の解釈が定められました。
五経博士とは、五経に精通している学者のことです。
五経とは、詩経、書経、易経、春秋、礼記のことです。
郷挙里選 ― 豪族の中央政界進出を招く
漢の武帝は、地方長官が徳のある優秀な人材を中央に推薦する官吏登用制度である郷挙里選を実施しました。
この制度は、地方豪族が自分の子弟を中央に推薦させたため、豪族の中央政界進出を招くことになります。