さぁさぁ出(前334)発、アレクサンドロス大王の東方遠征
前334年、マケドニアの王アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)は、父フィリッポス2世の志を継ぎ、アケメネス朝ペルシアへの東方遠征を開始しました。彼はわずか十数年で世界史上まれに見る大帝国を築き上げます。
この記事では、アレクサンドロス大王の東方遠征について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
アレクサンドロスの即位
アレクサンドロスはマケドニア王フィリッポス2世の息子として生まれました。少年時代から哲学者アリストテレスの教育を受け、将来の王としての資質を育みます。その後、フィリッポス2世が暗殺されると王位を継ぐことになります。
家庭教師アリストテレス

アレクサンドロスは12歳のとき、哲学者アリストテレスに師事しました。
アリストテレスはソクラテス、プラトンと並ぶ三大哲学者の一人で、あらゆる学問を体系化したことから「万学の祖」と呼ばれています。なお、アリストテレスはソクラテスの弟子プラトンの弟子にあたります。
アレクサンドロスは、家庭教師のアリストテレスから政治や哲学など幅広い知識を学びました。

父フィリッポス2世の暗殺

父であるフィリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロスは20歳の若さで即位しました。
フィリッポス2世は、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベの連合軍を破り、ギリシアの覇権を握った人物です。その遺志を継いだアレクサンドロスは、マケドニア・ギリシア連合軍を率いて東方への遠征に乗り出します。

東方遠征
マケドニアの王として即位したアレクサンドロスは、マケドニア・ギリシア連合軍を率いてアケメネス朝ペルシアへの遠征を開始しました。
東方遠征の目的は、ギリシアを侵略したペルシアへの復讐や、領土的な野心にあったと考えられています。
グラニコス川の戦い ― 最初の本格的な戦闘

最初の本格的な戦闘は、前334年のグラニコス
アレクサンドロスは騎兵隊を率いて先頭に立ち、ペルシア軍を撃破しました。この勝利により、アナトリアの制圧に成功しました。
イッソスの戦い ― ダレイオス3世と初対決

翌年の前333年、トルコ南東部のイッソス(現在のイスケンデルン)で両軍が激突しました。これをイッソスの戦い(前333年)といいます。
アレクサンドロス軍の猛攻の前に、アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス3世は、戦場を離脱して逃亡します。この勝利により、アレクサンドロスの名声はギリシア・オリエント全域に広がりました。

フェニキア人 諸都市の征服
イッソスの戦いで勝利したアレクサンドロスは、ダレイオス3世を追うよりも地中海東岸の制圧を優先しました。フェニキア人の諸都市を次々と攻略し、地中海沿岸の支配権を確立しました。
エジプト征服 ― ファラオに即位
アレクサンドロス軍がエジプトへ進軍すると、ペルシアの総督は抵抗せず降伏しました。ペルシアの支配に不満を抱いていたエジプト人たちはアレクサンドロスを熱烈に歓迎し、彼をファラオ(王)として迎え入れました。
この地に彼は新しい都市アレクサンドリアを建設します。アレクサンドリアは後に学問と文化の中心地として発展しました。
アルベラの戦い ― ペルシア軍の崩壊

前331年、アレクサンドロスは、メソポタミアへ侵攻すると、ティグリス川中流にあるアルベラ近郊のガウガメラ平原で再びダレイオス3世の大軍と対峙します。
これをアルベラの戦い(ガウガメラの戦い)といいます。
この戦いでペルシア軍はマケドニア軍の猛攻により総崩れとなり、ダレイオス3世は再び逃走しました。この戦いでペルシアの軍事力は完全に崩壊しました。

アケメネス朝ペルシアの滅亡

前330年、逃亡したダレイオス3世は、部下のベッソスに裏切られ殺害されました。ここに、200年以上続いたアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡します。
この大遠征を成し遂げたアレクサンドロスは、東西を統一した偉大な征服者として「アレクサンドロス大王」と称えられるようになりました。

アレクサンドロス大王の最期
その後もアレクサンドロスは東方への遠征を続け、インダス川流域まで到達しました。しかし、長年の遠征と気候の厳しさで軍は疲弊し、さらにアレクサンドロス自身も体調を崩します。前323年、バビロンで病に倒れ、わずか32歳で死去しました。
死後、彼の広大な帝国は将軍たちによって分割され、ディアドコイ戦争(後継者戦争)が始まります。
理解を深めるQ&A
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