要塞(前431)攻める、ペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争は、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟と、アテネを盟主とするデロス同盟によるギリシアの覇権を巡る戦争です。スパルタが勝利しギリシアの覇権を握りました。
この記事では、ペロポネソス戦争について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
強まるアテネの支配 ― デロス同盟の変質
アケメネス朝ペルシアの再侵攻に備え、エーゲ海地域の防衛を目的として、アテネを盟主とするデロス同盟が結成されました。
しかし、アテネの勢力が拡大するにつれ、同盟は次第に形骸化し、実質的にはアテネが諸ポリスを支配する「アテネ帝国」へと変質していきます。
このアテネの覇権的な動きに対し、ライバルのスパルタを中心とするペロポネソス同盟が強く反発しました。

ペロポネソス戦争 ― アテネとスパルタの対決
アテネを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の対立が深まる中、前431年に両者の間でペロポネソス戦争が勃発しました。
ペリクレスの活躍と疫病の流行

戦争初期、アテネはペリクレスの指導のもとで優勢に立ちました。
しかし、スパルタ軍の侵攻を避けてアテネ市民を城壁内に避難させた結果、人口が過密になり、衛生環境の悪化から疫病が発生しました。
この疫病で市民の約3分の1が死亡し、ペリクレス自身も命を落としました。
扇動政治家の台頭

ペリクレスを失ったアテネは大混乱に陥り、民衆の人気取りによって権力を握る扇動政治家(デマゴーゴス)が台頭しました。
衆愚政治
扇動政治家は、戦争を煽って民意を操作し、無謀なシチリア遠征(シケリア遠征)を実施して失敗します。このような扇動政治家による政治を、衆愚政治といいます。
その結果、次第にデロス同盟の諸ポリスが離反し、アテネは劣勢に追い込まれました。
アケメネス朝ペルシアの介入

やがてアケメネス朝ペルシアが戦争に介入し、スパルタを支援しました。ペルシアは、デロス同盟で勢力を拡大したアテネを弱体化させ、ギリシア全体の力を削ぐことを狙っていました。
スパルタの勝利と暗雲
アケメネス朝ペルシアの支援を受けたスパルタは、アテネに勝利し、ギリシアの覇権を握りました。
アテネの三十人僭主
ペロポネソス戦争で敗れたアテネでは、スパルタの支援を受けたクリティアスらによる三十人僭主の寡頭制政権が樹立され、民主派と激しく対立しました。
なお、クリティアスは、哲学者ソクラテスの弟子としても知られています。

スパルタの支配に対する反発
スパルタは覇権を握ると、各地のポリスにスパルタ派の政権を樹立させて支配を強めました。しかし、その圧政に対する不満が広がり、中部ギリシアのポリスであるテーベが反抗の先頭に立つようになります。

理解を深めるQ&A
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