至急、お(前490)知らせ、マラトンの戦い
マラトンの戦いは、第2回ペルシア戦争において、アテネの将軍ミルティアデスがアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世をマラトンで打ち破った戦いです。
この記事では、第2回ペルシア戦争(マラトンの戦い)について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
土と水の要求 ― ペルシアの服従命令

第1回ペルシア戦争では、アケメネス朝ペルシアの軍が暴風雨に遭って撤退したため、戦闘らしい戦いもなくギリシアの不戦勝に終わりました。

その後、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は、ギリシア諸ポリスを服従させるために使者を送り、「土と水(Earth and Water)」を献上するよう命じました。これは、ペルシアへの服従と支配の受け入れを意味するものでした。
アテネとスパルタの服従拒否
多くのポリスが恐れてこの要求を受け入れましたが、アテネとスパルタはこれを拒否し、対決姿勢を明確にしました。この服従の拒否に激怒したアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は、再びギリシアへの遠征を決意します。
こうして、第2回ペルシア戦争(マラトンの戦い)が始まりました。
第2回ペルシア戦争 ― マラトンの戦い

Petar Milošević, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は、約2万5000の大軍を率いてギリシアに侵攻しました。それに対して、アテネ軍を指揮したのが将軍ミルティアデスです。
元僭主ヒッピアスの案内

迫り来るペルシア軍──。その案内役として同行していたのは、かつてアテネを支配していた元僭主ヒッピアスでした。ヒッピアスは、父ペイシストラトスの跡を継いでアテネを統治していましたが、暴政によって追放され、ペルシアに身を寄せていました。

彼はこの遠征に参加し、「ペルシアの力を借りてアテネに復帰する」ことを狙っていたのです。ペルシア軍は、ヒッピアスの案内によって、アッティカ地方のマラトン平原に上陸しました。
そこで、アテネの将軍ミルティアデスが迎え撃ちます。
ペルシア軍とアテネ軍
ペルシア軍

アケメネス朝ペルシア軍は、弓兵を中心とする軽装兵が主力で、遠距離からの一斉射撃で敵を弱らせ、騎兵が突撃してとどめを刺すという戦法を得意としていました。
アテネ軍

一方のアテネ軍は、中小市民で構成された重装歩兵を主力とし、密集陣形を組んで槍と盾による接近戦を得意としていました。
重装歩兵の活躍

アテネの将軍ミルティアデスは、重装歩兵の中央の陣をあえて薄く配置し、敵を誘い込んでから両翼を厚くして包囲するという巧妙な戦術をとりました。
その結果、アケメネス朝ペルシア軍は、両側から重装歩兵に包囲されて混乱に陥ります。軽装の弓兵たちは接近戦で不利となり、大敗しました。
ヘロドトスの『歴史』によれば、ペルシア軍の戦死者は約6400人、アテネ軍の戦死者はわずか192人だったと伝えられています。
ヒッピアス、その後
なお、案内役を務めたヒッピアスは、ペルシア軍の敗北により、アテネ復帰の望みが絶たれ、失意のうちに生涯を終えたといいます。
マラソン競技の起源
アテネの勝利を知らせるため、伝令がマラトンからアテネまで走り、勝利を伝えたのち息絶えたという伝説があります。この話が、現在のマラソン競技の起源とされています。
ちなみに、マラトンの英語読みがマラソンです。
二人の英雄の死
マラトンの戦いでアテネの英雄になったミルティアデスは、その後の戦いで受けた傷がもとで亡くなりました。
一方、敗れたアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は、再びギリシア遠征を計画しましたが、帝国内のエジプト反乱の鎮圧に追われる中で病死します。
その意思は、息子のクセルクセス1世に受け継がれ、やがて第3回ペルシア戦争(テルモピレーの戦い)へと続いていくのです。

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