アケメネス朝ペルシアで起きたイオニア植民市の反乱(前500年)。
この反乱をアテネが支援したことにアケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世が反発し、報復としてギリシア遠征を決定します。
こうして第1回ペルシア戦争(前492年)が始まりました。
この記事では、第1回ペルシア戦争について整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
目次
ペルシア戦争前史
ギリシアとペルシアの間で繰り広げられるペルシア戦争の直前、両国ではそれぞれ大きな変化が起こっていました。
ギリシア
アテネ
ギリシアのアテネでは、クレイステネスの改革によってアテネ民主政の基礎が築かれ、市民による政治が始まりつつありました。
あわせて読みたい
前508年 クレイステネスの改革
語呂合わせ 困るや(前508)つは陶片追放、クレイステネスの改革 覚え方 『ドラムをソロでペイしてクレカ』(アテネ民主政の発展の順番) ドラ = ドラコンの立法(前621…
アケメネス朝ペルシア
アケメネス朝ペルシア
一方、アケメネス朝ペルシアでは、ダレイオス1世が即位し、広大な帝国を統治する中央集権体制を整え、最盛期を築いていました。
あわせて読みたい
前522年 ダレイオス1世の即位
語呂合わせ コツつ(前522)かんで統治する、ダレイオス1世の即位 アケメネス朝ペルシアの3代目の王 ダレイオス1世は、小アジアからインダス川流域まで支配下に加え、中…
このように、両者がそれぞれの体制を整えつつあった時代、小アジアで起きた反乱が、両国の対立の火種となっていきます。
イオニア植民市の反乱 ― ペルシア戦争のきっかけ
前500年、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の時代に、ペルシア領内の小アジアでイオニア植民市の反乱が起こりました。
この反乱こそが、のちのペルシア戦争の発端となります。
イオニア植民市とは
イオニア植民市とは、小アジア西岸のイオニア地方に建設されたギリシア人の植民市のことです。
もともと独立した都市国家でしたが、やがてリディアの支配下に入りました。
さらに、アケメネス朝ペルシアがリディアを滅ぼした際に、ペルシアの支配下に組み込まれることとなりました。
イオニア植民市の反乱は、イオニア地方の都市ミレトスで起きました。
イオニアは地方名、ミレトスは都市名です。
イオニア自然哲学
なお、イオニア地方は、前6世紀頃、イオニア自然哲学が生まれた地でもあります。
「世界の成り立ちは神の意志ではなく、自然の原理で説明できる」と考え、万物の根源(アルケー)を探究しました。
アテネの支援と反乱の鎮圧
反乱が起きると、ギリシアのアテネが支援しました。アテネの人々は、イオニア植民市と同じイオニア人であり、同胞意識があったためです。
しかし、ペルシアの強大な軍事力を前に、反乱は次第に追い詰められ、最終的にミレトスは陥落し、反乱は鎮圧されました。
第1回ペルシア戦争 ― ギリシアへの報復
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は、イオニア反乱を支援したアテネへの報復として、ギリシア遠征を決定しました。第1回ペルシア戦争の始まりです。
暴風雨による撤退 ― ギリシアの不戦勝
暴風雨
ペルシア軍はギリシアの北方のトラキアを制圧し、ギリシア本土への侵攻を開始しました。
しかし海を渡る途中で暴風雨に遭い、やむなく引き返すことになりました。
この結果、第1回ペルシア戦争は、ギリシアの不戦勝に終わりました。
第2回ペルシア戦争へ
その後、ダレイオス1世は、ギリシアに服従を求める使者を送りますが、アテネとスパルタが拒否したことにより、第2回ペルシア戦争(マラトンの戦い)へとつながっていきます。
あわせて読みたい
前490年 マラトンの戦い
語呂合わせ 至急、お(前490)知らせ、マラトンの戦い マラトンの戦いは、第2回ペルシア戦争において、アテネの将軍ミルティアデスがアケメネス朝ペルシアのダレイオス1…
理解を深めるQ&A
よくある質問を通して、学びをさらに深めよう!
ペルシア戦争はどこ対どこの戦いですか?
アケメネス朝ペルシアとギリシアのポリス連合との戦いです。
専制的なペルシアに対し、自由を重んじるギリシアのポリスが力を合わせて抵抗しました。
ペルシア戦争はなぜ起きたのですか?
イオニア植民市の反乱をアテネが支援したためです。
アケメネス朝ペルシアは報復としてギリシア本土に侵攻し、ペルシア戦争が始まりました。
イオニア植民市の反乱をアテネが支援した理由は?
民族的な同胞意識があったためです。
アテネはイオニア人のポリスであり、イオニア植民市もイオニア人による植民市で、民族的なつながりを持っていました。
植民市と植民地の違いは何ですか?
植民市は、あるポリスが人口増加や商業活動の拡大のために別の地域につくった新しいポリスのことです。独立した都市として母国と対等な関係にありました。
一方、植民地は宗主国の支配下にある領土で、独立性がありません。
ペルシア戦争の戦いの順番は?
ペルシア戦争の主な戦いの順番は、次の通りです。
- マラトンの戦い(前490年):アテネ軍がペルシア軍を撃退。
- テルモピレーの戦い(前480年):スパルタ軍が奮戦するも全滅。
- サラミスの海戦(前480年):アテネ海軍が勝利。
- プラタイアの戦い(前479年):ギリシア連合軍が勝利。
イオニア植民市の反乱と合わせ、語呂合わせで以下のように覚えます。
ペルシア戦争は何回ある?
ペルシア戦争は、第1回から第4回まであります。
第1回がこのトラキア侵攻、第2回がマラトンの戦い、第3回がテルモピレーの戦いとサラミスの海戦、第4回がプラタイアの戦いです。
なお、本格的な戦いにならなかったトラキア侵攻をカウントしない数え方の場合は、第1回がマラトンの戦い、第2回がテルモピレーの戦いとサラミスの海戦、第3回がプラタイアの戦いになります。
ペルシア戦争の主な戦いの経過は?
ダレイオス1世の侵攻ではマラトンの戦いでアテネが勝利しました。
その後、息子のクセルクセス1世が再び侵攻し、テルモピレーの戦いではスパルタが奮戦しましたが敗北しました。しかし、サラミスの海戦でアテネ海軍が大勝利を収めます。
そして、続くプラタイアの戦いでギリシア連合軍がペルシアを撃退しました。
ペルシア戦争の歴史的意義は何ですか?
専制的なアケメネス朝ペルシアの支配に対して、ギリシアのポリスが自由と独立を守り抜いたという意義がありました。
ペルシア戦争の歴史書を書いたのは誰?
ヘロドトスです。
彼はギリシアの歴史家でペルシア戦争を題材に歴史書『歴史』を著しました。内容は、物語的な記述が多いのが特徴です(物語的歴史記述)。
ヘロドトス
世界で初めて過去の出来事の因果関係を明らかにしようとしたため、のちに「歴史の父」と呼ばれています。
この時代に興味を持つために ― 漫画『バトルマンガで歴史が超わかる本』
『バトルマンガで歴史が超わかる本』は、ペルシア戦争など歴史の重要な戦いを迫力のあるマンガ形式でわかりやすく解説する一冊です。英雄たちの活躍や戦略を臨場感たっぷりに描き、難しい歴史の流れも直感的に理解できる工夫が満載です。教科書の内容がイメージしやすくなり、楽しく学べるので、歴史初心者や学生にもオススメです!