コツつ(前522)かんで統治する、ダレイオス1世の即位
アケメネス朝ペルシアの3代目の王 ダレイオス1世は、小アジアからインダス川流域まで支配下に加え、中央集権体制を確立させ、全盛期を築き上げました。
この記事では、ダレイオス1世の即位からペルシア戦争の初期までを整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。
アケメネス朝ペルシア
アケメネス朝ペルシアは、キュロス2世がメディアから独立して建てた国です。2代目の王であるカンビュセス2世のとき、オリエントが再統一されました。


3代目の王、ダレイオス1世の即位

2代目の王であるカンビュセス2世が不審な死を遂げると、有力な貴族であったダレイオス1世は、前522年にクーデターを起こし王位に就きました。
その後、各地で起きた反乱を鎮圧し、自らの正当性を主張するベヒストゥーン碑文を建立しました。
知事「サトラップ」

ダレイオス1世は、帝国を約20州に分けてサトラップと呼ばれる知事を任命しました。
サトラップは、徴税や治安維持、兵員の募集などを担いました。
監察官「王の目」・「王の耳」
サトラップの裏切りを防止するため、王の目、王の耳と呼ばれる監察官を派遣し、サトラップの監視を行っていました。
国道「王の道」
情報伝達や軍の移動を容易にするため、王の道と呼ばれる国道を建設して駅伝制を整備しました。
王の道は、アケメネス朝ペルシアの首都スサからサルデス(かつてリディアの首都だった)まで結ばれました。7日で王の命令を伝えることができたといわれています。
祭儀用の都市「ペルセポリス」

ダレイオス1世は、行政の中心都市スサとは別に、祭儀用の都市としてペルセポリスの建設に着手しました。
ペルセポリスでは、新年祭が行われました。

ゾロアスター教
アケメネス朝ペルシアではゾロアスター教が信仰されていました。創始者はメディアの宗教家ゾロアスターです。
火を神聖なものとしたため
ゾロアスター教は、光の神アフラ=マズダを善、暗黒の神アーリマンを悪とする善悪二元論をとっていました。
ペルシア戦争
イオニア植民市の反乱をきっかけにギリシア遠征を開始し、ペルシア戦争への道を歩むことになります。
イオニア植民市の反乱 ― 戦争のきっかけ
ペルシアの支配下にあったイオニア植民市の反乱に対してアテネが支援したことで、ダレイオス1世がギリシャ本土への介入を決意するきっかけとなりました。
第1回ペルシア戦争 ― ギリシアの不戦勝

イオニア植民市の反乱を支援したアテネへの懲罰として軍を派遣し、ペルシア軍はトラキアを占領。
しかし、艦隊がアトス岬で嵐に遭い、大損害を被り撤退しました。

第2回ペルシア戦争 ― マラトンで敗れる

ペルシア軍をギリシャ本土のアッティカ地方マラトン平原に上陸させました。
しかし、ミルティアデス率いるアテネ軍が奮戦し、ペルシア軍は撃退されました。

ダレイオス1世の死

マラトンでの敗北後も、ダレイオス1世はギリシャ再侵攻を計画していましたが、エジプトの反乱鎮圧に追われる中で病死します。
後を継いだ息子のクセルクセス1世が、第3回ペルシア戦争(テルモピレーの戦いやサラミスの海戦、プラタイアの戦い)を指揮しました。

理解を深めるQ&A
よくある質問を通して、学びをさらに深めよう!
関連年表
アケメネス朝ペルシアの建国から滅亡までの歴史は、次の通りです。
| 年号 | 出来事 |
|---|---|
| 前550年 | アケメネス朝ペルシアの建国 |
| 前546年 | アケメネス朝ペルシアがリディアを滅ぼす |
| 前539年 | アケメネス朝ペルシアがカルデア(新バビロニア)を滅ぼす |
| 前525年 | アケメネス朝ペルシアがオリエントを再統一 |
| 前522年 | アケメネス朝ペルシアでダレイオス1世が即位 |
| 前492年 | 第1回ペルシア戦争 |
| 前490年 | 第2回ペルシア戦争(マラトンの戦い) |
| 前480年 | 第3回ペルシア戦争(テルモピレーの戦い) |
| 前480年 | 第3回ペルシア戦争(サラミス海戦) |
| 前479年 | 第3回ペルシア戦争(プラタイアの戦い) |
| 前478年 | デロス同盟 |
| 前334年 | アレクサンドロス大王の東方遠征 |
| 前333年 | イッソスの戦い |
| 前331年 | アルベラの戦い(ガウガメラの戦い) |
| 前330年 | アケメネス朝ペルシアの滅亡 |
