コツつ(前522)かんで統治する、ダレイオス1世の即位
アケメネス朝ペルシアの3代目の王 ダレイオス1世は、小アジアからインダス川流域まで支配下に加え、中央集権体制を確立させ、全盛期を築き上げました。

知事「サトラップ」
帝国を約20州に分けてサトラップと呼ばれる知事を任命しました。
サトラップは、徴税や治安維持、兵員の募集などを担いました。
監察官「王の目」・「王の耳」
サトラップの裏切りを防止するため、王の目、王の耳と呼ばれる監察官を派遣し、サトラップの監視を行っていました。
国道「王の道」
情報伝達や軍の移動を容易にするため、王の道と呼ばれる国道を建設して駅伝制を整備しました。王の道は、アケメネス朝ペルシアの首都スサからサルデス(かつてリディアの首都だった)まで結ばれました。
祭儀用の都市「ペルセポリス」

ダレイオス1世は、行政の中心都市スサとは別に、祭儀用の都市としてペルセポリスの建設に着手しました。
ペルセポリスでは、新年祭が行われました。

ペルシア戦争
イオニア植民市の反乱をきっかけにギリシア遠征を開始し、ペルシア戦争への道を歩むことになります。
イオニア植民市の反乱 ― ペルシア戦争のきっかけ
ペルシアの支配下にあったイオニア植民市の反乱に対してアテネが支援したことで、ダレイオス1世がギリシャ本土への介入を決意するきっかけとなりました。
第1回ペルシア戦争 ― ギリシアの不戦勝
イオニア植民市の反乱を支援したアテネへの懲罰として軍を派遣し、ペルシア軍はトラキアを占領。
しかし、艦隊がアトス岬で嵐に遭い、大損害を被り撤退しました。

第2回ペルシア戦争 ― マラトンの戦いに敗れる
ペルシア軍をギリシャ本土のアッティカ地方マラトン平原に上陸させました。
しかし、ミルティアデス率いるアテネ軍が奮戦し、ペルシア軍は撃退されました。

ダレイオス1世の死、そして、第3回ペルシア戦争へ
マラトンでの敗北後も、ダレイオス1世はギリシャ再侵攻を計画していましたが、彼の死により実現しませんでした。
後を継いだ息子のクセルクセス1世が、第3回ペルシア戦争(テルモピレーの戦いやサラミスの海戦、プラタイアの戦い)を指揮しました。
