前550年 アケメネス朝ペルシアの建国

キュロス2世
キュロス2世
語呂合わせ

ここを(前550)まとめて、アケメネス朝ペルシアの建国

アケメネス家出身のキュロス2世は、メディアを滅ぼして独立し、アケメネス朝ペルシアを建国しました。

アケメネス朝ペルシアとは、ペルシア人が開いたアケメネス朝という意味です。

この記事では、アケメネス朝ペルシアの建国からキュロス2世の征服事業までを整理し、高校世界史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

目次

メディアからの独立

アケメネス朝の始まりは、現在のイラン南西部を拠点としたペルシア人の部族が力をつけたことにあります。

彼らは、もともとメディア王国の支配下にありましたが、アケメネス家のキュロス2世がその支配に反旗を翻しました。

キュロス2世の征服事業

キュロス2世は、メディア、リディア、新バビロニアの3カ国を次々に滅ぼしていきました。

メディア王国の征服(前550年頃)

メディアの支配下にあったキュロス2世は、反乱を成功させ、メディアを滅ぼしてアケメネス朝ペルシアを建国しました。

リディア王国の征服(前547年頃)

次に、アナトリア(現在のトルコ)のリディアを征服し、支配下に置きました。

新バビロニアの征服(前539年)

さらに、メソポタミアを支配していた新バビロニアを攻略しました。

キュロスの勅令

このとき、バビロン捕囚で強制移住されていたヘブライ人を解放した「キュロスの勅令」は有名で、寛容な統治の象徴とされています。

アッシリアとアケメネス朝ペルシア

アケメネス朝ペルシアは、アッシリアと同じくらい領土を広げましたが、アッシリアのような力による支配を行わず、被征服民の慣習を大切にすることで反乱が起こらないようにしました。

さらなる発展へ

キュロスの死後、息子のカンビュセス2世、そして、ダレイオス1世によってさらに領土が拡大し、帝国は全盛期を迎えることになります。

理解を深めるQ&A

よくある質問を通して、学びをさらに深めよう!

アケメネス朝のアケメネスとは何ですか?

アケメネスとは、アケメネス朝ペルシアの王家の祖先とされる人物の名前です。
つまり「アケメネス朝」とは、「アケメネスの一族による王朝」という意味になります。

アケメネス朝ペルシアはなぜ寛容な政策をとったのですか?

広大で多民族・多宗教からなる帝国を安定して統治するためです。

前王朝のアッシリアが力による恐怖支配を行った結果、反乱が絶えず政権が不安定だったのに対し、アケメネス朝ペルシアは征服地の宗教や伝統を尊重することで安定を保ちました。

関連年表

アケメネス朝ペルシアの建国から滅亡までの歴史は、次の通りです。

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年号出来事
前550年アケメネス朝ペルシアの建国
前546年アケメネス朝ペルシアがリディアを滅ぼす
前539年アケメネス朝ペルシアがカルデア(新バビロニア)を滅ぼす
前525年アケメネス朝ペルシアがオリエントを再統一
前522年アケメネス朝ペルシアでダレイオス1世が即位
前492年第1回ペルシア戦争
前490年第2回ペルシア戦争(マラトンの戦い)
前480年第3回ペルシア戦争(テルモピレーの戦い)
前480年第3回ペルシア戦争(サラミス海戦)
前479年第3回ペルシア戦争(プラタイアの戦い)
前478年デロス同盟
前334年アレクサンドロス大王の東方遠征
前333年イッソスの戦い
前331年アルベラの戦い(ガウガメラの戦い)
前330年アケメネス朝ペルシアの滅亡
目次