805年 徳政相論

藤原緒嗣
藤原緒嗣
語呂合わせ

覇を拒(805)む、徳政とくせい相論そうろん

徳政とくせい相論そうろんは、桓武かんむ天皇に政治の意見を求められた藤原ふじわらの緒嗣おつぐ菅野すがのの真道まみちが、軍事造作ぞうさくについて論じた議論のことです。

桓武天皇は、「軍事と造作をやめることを善しとする」藤原緒嗣の意見を採用しました。

この記事では、徳政相論について整理し、高校日本史で問われやすいポイントをわかりやすく解説します。

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目次

疲弊する民衆

桓武かんむ天皇の時代、軍事(蝦夷の征討)と造作ぞうさく(平安京の造営)にかかる膨大な出費によって、民衆の生活が圧迫されていました。

浮浪

重い税負担と労役により、農民の「浮浪」が急増します。

浮浪とは、口分田を捨てて本籍地を離れることで、律令制度の基盤を揺るがす深刻な問題でした。

偽籍

また、税負担を軽減するための「偽籍」も横行しました。

偽籍とは、性別を偽って戸籍に登録することです。

女性は、男性のように兵役の義務がなく口分田も男性の3分の2で良かったため、性別を偽る者が多発しました。

負担軽減政策

朝廷は、農民の浮浪や偽籍の問題に対応するため、様々な政策を実行してきました。

雑徭の負担を半減

雑徭ぞうようを、年60日から30日に負担を半減しました。

雑徭とは、成年男子の労役のことです。

公出挙の利率を低減

公出挙くすいこの利率を5割から3割に下げました。

公出挙とは、国が農民に稲を貸し付け、利息をつけて回収する制度のことです。

班田収授の改定

班田収授の頻度を6年に1回から、12年に1回にしました。

勘解由使の設置

地方政治の乱れを抑えるため、勘解由使かげゆしと呼ばれる令外官りょうげのかんを設けました。

令外官とは、令の規定のない必要に応じて設けられる官職のことです。

勘解由使は、国司交代の監査官で、後任に財源や官舎を引き継いだか監督しました。

健児の制(792年)

民衆を徴兵する軍団を廃止して、志願者から成る健児こんでいの制を採用しました。

常備兵を減らすことで出費が減少するとともに農民が増加するため税収の増加も期待できました。

徳政相論

様々な負担軽減政策を実行してきた朝廷ですが、抜本的な解決には至りませんでした。

このような中、桓武かんむ天皇は、徳政について藤原ふじわらの緒嗣おつぐ菅野すがのの真道まみちに諮問しました。

これを徳政とくせい相論そうろんといいます。

なお、「徳政」とは仁徳による政治を意味し、民衆の負担軽減と国家の安定を目指した政策転換を議論するものでした。

藤原緒嗣の意見

桓武かんむ天皇の「国の政治をどうしたらいいだろう」という問いに対して、藤原ふじわらの緒嗣おつぐとは次のように答えました。

「人々が苦しんでいる原因は、軍事(蝦夷の征討)と造作ぞうさく(平安京の造営)である。この2つを止めれば、人々が安らかになるだろう。」

藤原緒嗣は、式家しきけの藤原百川ももかわの長男です。

菅野真道の意見

一方、菅野すがのの真道まみちは、「軍事造作ぞうさくを止めれば、天皇の権威に傷がつく」と言って反対しました。

桓武天皇は緒嗣の意見を採用

桓武天皇
桓武天皇

桓武かんむ天皇は、藤原ふじわらの緒嗣おつぐの意見を採用し、軍事と造作は中止となりました。

なお、この内容は、日本にほん後紀こうきという史料に記述されています。

関連年表

平安時代、前期(794〜901年)の歴史は、次の通りです。

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年号出来事
794年平安京へ遷都
797年坂上田村麻呂、征夷大将軍になる
801年坂上田村麻呂の蝦夷征討
802年胆沢城の築城
805年最澄、天台宗を伝える
805年徳政相論
806年空海、真言宗を伝える
807年伊予親王の変
810年薬子の変
811年文室綿麻呂の派遣
814年凌雲集の編纂
820年弘仁格式の編纂
828年綜芸種智院の設立
833年令義解の撰進
842年承和の変
858年藤原良房、事実上の摂政就任
866年応天門の変
875年黄巣の乱
878年元慶の乱
884年藤原基経、事実上の関白就任
887年藤原基経、正式な関白就任
888年阿衡の紛議
894年遣唐使の廃止
897年滝口の武者(滝口の武士)の設置
901年昌泰の変
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