810年 薬子の変

平城天皇
平城天皇
語呂合わせ

ハート(810)乱れる、薬子の変

薬子くすこの変平城太上天皇へいぜいだいじょうてんのうの変)は、平城上皇じょうこうが藤原式家しきけ藤原薬子ふじわらのくすこ藤原仲成ふじわらのなかなり兄妹と共に、上皇の復位と平城京の復都を企てた政変です。

太上天皇とは、退位した天皇に贈られる尊称です。略して上皇ともいいます。

現天皇である嵯峨さが天皇により鎮圧され、薬子は自害、仲成は射殺されました。

この事件により、藤原北家ほっけが台頭するきっかけが生まれました。

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平城天皇の退位と嵯峨天皇の即位

嵯峨天皇
嵯峨天皇

桓武天皇の死後、皇位を継いだのは第一皇子の平城天皇でした。

しかし、在位わずか3年で病を理由に退位し、弟の嵯峨天皇が即位します。

退位後、平城天皇は上皇(太上天皇)として政治の復帰を目指し、影響力を強めていきます。

こうした状況の中で、政府が2カ所あるという二所にしょ朝廷の状態になってしまいます。

藤原薬子と藤原仲成

平城上皇の復権運動を支えたのが、藤原薬子とその兄の藤原仲成です。

彼らは藤原式家の出身で、特に薬子は平城上皇の寵愛を受け、政治にも大きく関わっていました。

仲成は官職を得て政界で力を持ち、式家の勢力拡大を狙って動いていました。

薬子の変

810年、平城上皇は再び都を平城京に戻す「復都」の詔を出し、復位を目指しました。

これに嵯峨天皇は強く反発し、すぐに軍事行動に出ます。

結果、藤原薬子は自害、藤原仲成は捕らえられて射殺されました。

こうして、政変は未然に鎮圧され、嵯峨天皇の政権が確立されました。

藤原冬嗣と北家の台頭

藤原冬嗣
藤原冬嗣

薬子の変ののち、嵯峨天皇は信頼のおける人物として藤原北家藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐを重用します。

藤原冬嗣は、天皇の側近機関である蔵人所くろうどどころの創設に関与し、初代の蔵人頭くろうどのとうに任命されました。

これを契機に、藤原氏の中でも北家が勢力を拡大していくことになります。

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