810年 薬子の変

平城天皇
平城天皇
語呂合わせ

ハート(810)乱れる、薬子くすこの変

薬子くすこの変平城へいぜい太上だいじょう天皇てんのうの変)は、平城上皇じょうこうが藤原式家しきけ藤原ふじわらの薬子くすこ藤原ふじわらの仲成なかなり兄妹と共に、上皇の復位と平城京の復都を企てた政変です。

太上だいじょう天皇てんのうとは、退位した天皇に贈られる尊称です。略して上皇じょうこうともいいます。

現天皇である嵯峨さが天皇と藤原北家ほっけ藤原ふじわらの冬嗣ふゆつぐにより鎮圧され、薬子は自害、仲成は射殺されました。

この事件が、藤原北家が台頭するきっかけになりました。

目次

桓武天皇から平城天皇へ

桓武かんむ天皇(在位781-806年)は長岡京ながおかきょうを経て平安京へいあんきょうへの遷都を行い、坂上さかのうえの田村麻呂たむらまろを征夷大将軍に任命して蝦夷討伐を進めるなど、積極的な政治改革を行いました。

桓武天皇には複数の皇子がいましたが、第一皇子の安殿あて親王が平城へいぜい天皇として即位します。

嵯峨天皇の即位

嵯峨天皇
嵯峨天皇

桓武天皇の後を継いだ平城へいぜい天皇でしたが、病気を理由に退位し、弟の嵯峨さが天皇が即位します。

しかし、平城天皇は太上天皇(上皇)として依然として政治的影響力を保持していました。

二所朝廷

ここで重要なのは、兄の平城へいぜい上皇平城京に移り住み、弟の嵯峨さが天皇平安京にいるという状況が生まれたことです。

これにより、二所にしょ朝廷と呼ばれる2つの政府が存在するという異常状態が発生しました。

式家の藤原薬子と仲成

平城へいぜい上皇の復権運動を支えたのが、式家藤原ふじわらの薬子くすことその兄の藤原ふじわらの仲成なかなりです。

藤原薬子と藤原仲成は、長岡京の造営使ぞうえいしを務めた藤原ふじわらの種継たねつぐの子です。

藤原薬子

藤原ふじわらの薬子くすこは、平城上皇の寵愛を受け、ないしのかみという官職に就き、政治にも大きく関わっていました。

尚侍は、天皇に仕えるないしのつかさの長官を務める女官で、天皇の命令を臣下に伝える役割を持ち大きな影響力を持ちました。

藤原仲成

藤原ふじわらの仲成なかなりは、薬子の兄で妹の影響で重用され官職を得て政界で力を持ち、式家の勢力拡大を狙って動いていました。

北家の藤原冬嗣

藤原冬嗣
藤原冬嗣

一方、嵯峨さが天皇側には、北家藤原ふじわらの冬嗣ふゆつぐが仕えていました。

冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て、新設された蔵人くろうどのとうに、巨勢こせの野足のたりとともに任命されます。

蔵人頭は、天皇の機密事項を扱う令外官りょうげのかんで、その役所を蔵人所くろうどどころといいます。

令外官

令外官りょうげのかんは、りょうの規定にない官職のことです。

代表的なものとしては、中納言、参議、勘解由使、蔵人頭などがあります。

なお、「奈良時代にできた令外官」と「平安時代にできた令外官」では、性質に違いがあります。

奈良時代にできた令外官

奈良時代にできた令外官には、中納言ちゅうなごん参議さんぎ内大臣ないだいじんがあります。

これらの令外官は、太政官の機能を補強するものでした。

令外官役割
中納言大納言の補佐役
参議八省・左右弁官の長官
内大臣左右大臣の下での政務

平安時代にできた令外官

一方、平安時代にできた令外官には、征夷せいい大将軍たいしょうぐん勘解由使かげゆし蔵人くろうどのとう検非違使けびいし押領使おうりょうし追捕ついぶ使関白かんぱくといったものがあります。

これらの令外官は、太政官の機能を奪うものでした。

例えば、薬子の乱ののち設置された検非違使が挙げられます。

検非違使は、裁判などを行う刑部省や不正を監視する弾正台京職などの職務を吸収し、平安京の警察や裁判を行う治安維持の職務を担うようになりました。

令外官役割
征夷大将軍蝦夷征討の最高指揮官
勘解由使国司交代の監視
蔵人頭天皇の機密事項を扱う
検非違使平安京の治安維持
押領使、追捕使諸国の反乱の平定
関白成人した天皇の補佐役

薬子の変

810年、平城へいぜい上皇は再び都を平城京に戻す「復都」の詔を出し、復位を目指しました。

これに嵯峨さが天皇は強く反発し、すぐに軍事行動に出ます。

その結果、藤原ふじわらの薬子くすこは自害、藤原ふじわらの仲成なかなりは捕らえられて射殺されました。

また、平城上皇は、出家に追い込まれました。

こうして、政変は未然に鎮圧され、嵯峨天皇の政権が確立されました。

藤原北家の台頭

薬子の変により、嵯峨さが天皇の信頼を勝ち得た藤原冬嗣によって、藤原北家は台頭していくことになります。

目次