866年 応天門の変

応天門
応天門
語呂合わせ

反論、無(866)駄だ、応天門の変

応天門おうてんもんの変は、応天門の炎上事件をめぐって、伴善男とものよしお源信みなもとのまことを放火の容疑者として告発したが、後に伴善男自身が真犯人として告発され、流罪となった事件です。

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応天門の炎上

866年、平安京の正門である応天門が突然焼失する事件が起こりました。

この事件はただの火事ではなく、のちに政界の勢力図を大きく塗り替える政治事件へと発展します。

疑われる源信

事件後、大納言だいなごん伴善男は、政敵である左大臣さだいじん源信が放火犯であると朝廷に訴えます。

源信は誠実な人物として知られており、この告発には多くの疑念がつきまといました。

真犯人・伴善男

やがて、事件の真相が明らかになります。

放火の背後には伴善男自身の陰謀があったとされ、善男は逆に伊豆へ流罪となりました。

同時に、善男の子も処分され、伴氏の勢力は大きく後退します。

良房、正式な摂政に就任

当時、まだ幼少の清和せいわ天皇に代わって政務を行っていたのが、外祖父である藤原良房ふじわらのよしふさです。

この事件で朝廷の混乱を収めた功績により、良房は人臣として初めて正式な摂政せっしょうに就任します。

藤原良房の事実上の摂政は、清和天皇が即位した時から行われていました。

この正式な摂政就任は、藤原北家による摂関政治の本格的な幕開けとなり、日本の貴族政治は藤原氏の手に委ねられていくのです。

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