858年 藤原良房、事実上の摂政就任

藤原良房
藤原良房
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やぁ、ご法度(858)、藤原良房、事実上の摂政就任

藤原良房ふじわらのよしふさは、文徳もんとく天皇の死後、わずか9歳の惟仁これひと親王清和せいわ天皇として即位すると、事実上の摂政せっしょうとして朝廷の実権を握りました。

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文徳天皇と藤原良房

藤原良房は、藤原冬嗣ふじわらのふゆつぐの子であり、父の代から朝廷での地位を高めてきた藤原北家ほっけの中心人物です。

藤原冬嗣は、薬子の変で活躍した人物です。

良房の娘は、文徳天皇の皇后であり、良房は外祖父がいそふとして天皇家と深いつながりを持つようになります。

良房、太政大臣に就任(857年)

857年、藤原良房は太政大臣だいじょうだいじんに任命されます。

これは臣下として最高位であり、天皇に次ぐ政治的権威を得たことを意味します。

清和天皇の即位(858年)

858年、文徳天皇が崩御すると、わずか9歳の惟仁親王が即位し、清和天皇となります。

しかし、幼少の天皇に代わって政務を行う必要がありました。

ここで、外祖父である藤原良房が政務を代行するようになり、事実上の摂政として朝廷の実権を握ることになります。

のちに、応天門の変(866年)が、きっかけで正式な摂政に就任することになります。

人臣初の摂政

この藤原良房の摂政就任は、「人臣初の摂政」として歴史的に非常に重要です。

「人臣」とは天皇以外の身分の者を指し、それまで摂政の地位は皇族に限られていました。

良房の前例により、今後は藤原氏を中心とした貴族が摂政・関白として政権を運営する時代(摂関政治)が到来します。

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